蝶紋

「蝶の家紋ってなんか不気味じゃない?」
「蝶紋は平家の紋ですよね?」
あなたは蝶紋についてどう思うだろうか。

第一話 「Y氏を想う」

私が今の職業についたのは1965年の春である。
当時、私の本業は「染色補正業」とは呼ばず、「しみ落し屋」や「地直し屋」と呼ばれていた。典型的な職人の世界であった為、無論私は見習いとして十代の頃奉公に上がった。

その頃、使いに行かされた主なところは「上絵屋」だった。
着物に家紋を入れる時、色物の場合、私共の工房で紋抜きし、黒の場合は、すでに染め抜いてある個所を紋洗いするのだ。そしてこれらの作業を終えた商品を次の工程(上絵屋)に回すのである。
さて、私の行かされていた主な上絵屋は三軒あった。そのうちの一軒のY氏が後に父との開業後にも深く関わっていくのである。Y氏は父と同世代で少し怖い感じのする典型的な職人さんであった。

私が色々と彩色家紋の可能性に挑戦していた1977年の頃、私とY氏は親しくなった。
それは大宮華紋を始めるためのヒントとなった「目返し」という言葉を教わった事がきっかけだった。しかしこの「目返し」という技法は現在では殆んど用いられず、当時でさえもすでに死語になっていた。
私が大宮華紋の試作を始めた頃は「目返し色上絵」と称していた。
その頃、試作のためにY氏と連絡を取りながら夜遅くまでよく作業場にお邪魔したものだ。Y氏の作業机の正面に座り込み、目の前で私の注文に答えて貰っていた。
Y氏は技術と共に誰もが認める知識人であったため、組合の技術講習会ではよく講師を務められていた。私はそんなY氏の仕事の傍ら、家紋の事を色々と教わった。そしてそれがより家紋の魅力に取り付かれていく切っ掛けにもなったのであった。

大宮華紋はその後に知り合うこととなる私と同世代の青年上絵師によって完成されるのだが、やはりその基盤となったのはY氏との関わりであり、私に家紋の世界の素晴らしさを与えてくれた恩人なのである。そして私にとって師であるこの第二の父のような存在に思えたY氏が亡くなったのは、大宮華紋発表後、数年経った頃だった。

もっと仕事をして欲しかった。もっともっと家紋を教えてもらいたかった・・・。

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第二話 「浮線の謎」

夜中、Y氏に仕事をしてもらいながら二人でよく話し合った思い出の中にこんなエピソードがある。
紋帖に「浮線○○」というのがしばしば出て来る。

浮線蝶
浮線蝶
浮線花菱
浮線花菱
浮線茶の実
浮線茶の実
浮線片喰
浮線片喰
浮線橘
浮線橘
浮線柏
浮線柏
浮線鷹の羽
浮線鷹の羽
浮線蔦
浮線蔦
浮線桐
浮線桐
浮線桔梗
浮線桔梗
浮線花桔梗
浮線花桔梗
浮線扇
浮線扇

ご覧のように「浮線蝶」(上記図:左上)は蝶をモチーフに左右対称にして円に閉じ込めたデザインである。ここでご覧頂きたいのはその他の「浮線何々」である。共通点は全て左右対称で上から見た蝶が羽根を広げたような形なのである。どうしてそのように見えるのか、もう少し注意して見ると「浮線蝶」にある触覚が蝶とは無縁のものにも全て共通して存在しているのが分かる。
その頃の私は不思議でならなかった。まるで「浮線蝶」が基本形でそれ以外は全てそれを真似たかのようである。

家紋の種類を増やす場合、その原形を保たせながらデザインを変えていく。その変形パターンの一つに「真似る」がある。この「浮線○○」の場合は全て「浮線蝶」(上記図参照)を真似たものである。

そこでY氏に問う事にしたのだが、私の想像とはうらはらに意外な反応が返ってきた。
えーっ!そう言えばそうだな・・・これは今まで気が付かなかった。しかしどうして「蝶」以外に触覚があるのかなぁ?
今まで私の質問には何でも答えて下さって、何十年も家紋を描いてこられたY氏が答えられない事自体とても不思議であった。
結局、この謎は自分で解き明かそうと思った。

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第三話 「浮線綾(ふせんりょう)」

紋帖を繰ってみると、「浮線綾(ふせんりょう)何々」という家紋が見つかった。「浮線何々」と同じように、色々な項目に掲載されている。
共通して言える事は、円の中に唐草などをあしらいながら、名称のモチーフが幾何学的に描かれていて、ちょうど万華鏡を覗いているかのようである。他の紋章とはいささか趣が異なるのは一目瞭然だ。

では「浮線綾」とは何か?それまで副文とされていた文様を抜粋し、円に閉じ込めて形にしたもので、平安時代から鎌倉時代にかけて発達したものである。

浮線綾
浮線綾花角
浮線綾花角
浮線綾梅
浮線綾梅
浮線綾菊二剣片喰
浮線綾菊二剣片喰
浮線綾桜
浮線綾桜
浮線綾山桜
浮線綾山桜
風船龍
風船龍
花風船龍つる葵
花風船龍つる葵
浮線綾菊
浮線綾菊

手持ちの資料を色々調べてみると記されている事はほぼ同じであった。
「浮線綾とは織り糸を浮かせて模様を織った綾織物のことである。特定の文様をさしているのではなく、文様の線を浮き出させて織ったものの総称である。後には大型の円の文様の名称となった。浮線綾には菊、唐花、橘、藤、蝶などが見られるが、蝶の文様が最も多く用いられたので、浮線綾は浮線蝶のことと思われるようになった。」(日本家紋総鑑より抜粋)

また、浮線綾は浮線ともいい、最も好まれたのが「浮線蝶」で、後世、浮線といえば「浮線蝶」を意味するようになったという。
これで答えが出たも同然であるかのように思えた。しかし何かが違うような気がする。
浮線綾は完全な円であるが、紋帖上の浮線蝶は円ではない。「上から見た蝶のみを円に閉じ込めた」ように見える。やはり今一つすっきりしない。別の何かがありそうに思えてならない。

手持ちの紋帖の一冊で「浮線」の事を全て「風船」と記してあるものを見つけた。上記画像に「風船龍(ふせんりょう)」「花風船龍つる葵」という家紋があるが、それの事だ。
これは単なる当て字なのか?それとも当時の洒落なのだろうか?

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第四話 「蝶というより蛾のようだ」

先日、ある女性のお客様が紋帖を見ていて「蝶の紋ってどうしてこんなに気味が悪いの?」と言った。
そう言えば私もこの仕事についた当初はそう思っていた。「蝶というより蛾のようだ」と。しかし見慣れたせいであろうか、いつの間にかそう思わなくなっていた。
やはりこの女性のように古典文様に馴染みの少ない若い人には、そう映るのも当然といえば当然であろう。

家紋のあり方というものは時代によって変わってきたもの。美しさを求めファッションとして楽しんだ時代もあれば、敵を威嚇するなど凄みを強調し、戦の象徴とする時代もあった。
さて、問題の「蝶紋」であるが、これも同じく美しさや凄みを感じさせるものもある。(下記画像参照)
ご覧の通り、実に様々なデザインがある。しかもある意味不気味なものも多い。蝶紋で代表される揚羽蝶が逆に異質に見えるほどだ。

蝶家紋
揚羽蝶
揚羽蝶
変わり鎧蝶
変わり鎧蝶
変わり対い蝶
変わり対い蝶
三ツ飛び蝶
三ツ飛び蝶
池田対い蝶其ニ
池田対い蝶其ニ
変わり源氏蝶其一
変わり源氏蝶其一
変わり源氏蝶其二
変わり源氏蝶其二
光琳胡蝶
光琳胡蝶

日本家紋総監によると蝶家紋は、奈良時代に中国より伝来した正倉院御物の金銀平蝶脱八角鏡や花蝶背円鏡に描かれている文様より始まるという。
それには花や鳥などの添え物として蝶が描かれており、しかも「蛾」のような形なのである。
平安中期から蝶の文様は増え始め、鎌倉時代となると蝶文様は流行し、家紋にまで発展する事となったのだという。
しかし何故、奈良時代の蝶文様は「蛾」のようなデザインなのだろうか。

不思議に思い、地元の文様の先生に尋ねてみたが、この事には先生も首を傾げるばかりで確信にまで至らず、蝶の文様の話しだけで時が経った。
そんな中、先生の一つの言葉に私は全身の血が踊る思いがしたのだ。
それは何と「以前は浮線蝶を伏せ蝶と呼んでいた」という。
「伏せ蝶」とは羽を水平に伏せている状態を指し、それに対して「羽を立てる」つまり羽を上げた状態を「揚羽蝶」というのだ。

「揚羽蝶」とは現在の一般的に言うアゲハチョウではなかったのである。

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第五話 「蝶について」

文様上の揚羽蝶と生物学上でのアゲハチョウが別のものであったとは意外であった。
羽を上げるか下げるかで文様の名称が区別されていたのだ。そしてこのようなところで「浮線蝶」の謎解きの糸口が見つかるとは思いにもよらなかったのである。
結局、「浮線蝶」は浮線綾とは無縁なものであった。それは「伏せ蝶」から転じたものであった事からも分かる。
この伏せ蝶が文様上の形ではなく、もし実際の形態を意味していたとすれば、もしかすると伏せ蝶は蝶ではなく「蛾」ではなかったのだろうか?

蝶と蛾は「鱗翅目(りんしもく)」といい、そのほとんどが「蛾」であるという。そのうちの極一握りが蝶だというのだ。蝶と蛾の区別方法は様々で、世界各国でもその分け方には違いがあり、中には区別すらしていない国もあるという。
また分類学的にはいわゆる「蝶」もまた「蛾」である事が分かった。区別方法は一般的に「ものにとまる時に多くの蛾は羽を横に広げ伏せた形になる」「蝶は華やか。蛾は地味」「蝶は昼間に活動。蛾は夜に活動」「蝶の幼虫はアオムシ。蛾の幼虫は毛虫」などがあげられる。日本での区別方法としてはやはり触覚を観察するとよいという。
しかし上記の区別方法に当てはまらない例外のものも多くいるからやっかいだ。
また蛾の多くは繭を作る事が出来る。例えば「蚕(かいこ)蛾」。絹を作り出す繭を作る。絹は当時からかなりの高級品であった。
この事から「蝶より蛾を貴重なものとして崇めていたのでは?」という仮説もたてられるのである。

さて、問題はこの紋章が生まれた平安から鎌倉にかけての当時の日本で、この区別が出来ていたか否か。これが疑問なのだ。
どちらにしても紋帖で見る限りでは蛾に近いデザインの方が多いように見える。

蝶の古名を「かわひらこ」という。川のせせらぎに蝶がひらひらと舞う、そんなイメージを持たせる名称ではあるが、なんとマオリ語の「カウアウヒ・ラカウ」という言葉から来ているという。意味は「木の周りにまつわりついて飛ぶ習性を持った虫」という意味だそうだ。
もはやここまでが限界だろうか?これ以上は私には分からない。

そしてこの一件を友人に話してみて、意見を求めてみた。
「中国では昔、美しさの形容詞として「蛾」の熟語がいくつかある。例えば、女性の美しい眉の形容で「蛾翠(がすい)」「蛾眉(がび)」といったような言葉が存在する。このように中国では蛾を美しいものとして捉えられていたようである。ところが当時の日本では蛾も全て「蝶」の一文字で片づけられていたのではなかったのだろうか?つまり中国で美しいとされて渡って来た「蛾」の文様が日本では蝶として解釈されたのでは、と考えられないだろうか?」
と、友人は自分なりの説を話してくれた。この話に私は心が晴れた気持ちになり、この説が疑問の的確な答えではないかと思った。

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第六話 「最高の揚羽蝶」

Y氏との浮線蝶の話しから、蝶家紋、蝶の生態への話しにまで広がってきた。
ここで少し箸休め程度に、私が今まで出会った揚羽蝶の家紋の中で一番好きなものをご紹介させて頂きたいと思う。

揚羽蝶右の画像こそがその揚羽蝶である。
WEB上では残念ながら繊細な上絵を表現出来なかったのだが、この揚羽蝶の上絵は本当に繊細な細い線で描かれているのだ。そして何より形が素晴らしい。特に表情と足が特徴的だ。
初めてこの揚羽蝶を見た時、その素晴らしさに強烈なインパクトを感じ、言葉を失ったほどだ。
数ある紋帖の揚羽蝶よりバランスも良くシャープだ。私にはこの揚羽蝶が今にも飛び立とうとしているような躍動感に満ちているように感じる。
私は見ていても全く飽きが来ない。それどころかこれを描いた上絵師の人柄や感性がそのまま投影されているかのようで、その想いがひしひしと伝わってくる。
これは家紋研究のテーマに成り得ると思ったほど、私には魅力的なものなのだ。

Y氏の話しでこのようなエピソードがあった。
「上絵師の上手い下手の見分けは五三ノ桐と揚羽蝶を描かすだけで十分だ」
そう言ったY氏には凄く説得力があった。
上絵師にとって、仕事をする機会が多いであろう「五三ノ桐」と「揚羽蝶」だからこそ、目の肥えた職人であればその二点だけで技術やセンスが分かってしまうのかも知れない。

さて、いつまでも脱線しているわけにはいかないので、話しを元に戻そう。
友人の説には感銘を受けたが、いつまで経っても答えは出てこない。ここで諦めてまた疑問を残したまま終わるのだろうか。
最後の糸口を辿るように私は模索した。
インターネットで蝶を調べると膨大なデータ量が出てくる。蝶を研究している方のサイトも多い。そういった方々にメールで今回の経緯と疑問を伝え、ご教授願おうと思った。
その為にはまず一度この「蝶紋」の話を人に見せる事が出来るレベルまで完成させなければ成らなかった。

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第七話 「蝶文様と蝶道」

休日、図書館へ調べに行った時、とある蝶の文様の本を見つけた。
その本をめくってみて、私は驚愕した。なんと「蛾」がどこにもいないのである。
どの文様を見ても蝶はやはり蝶であり、そのどれもが美しい。紋帖に載っている一見怖そうで威厳を出していた紋のような文様は何処にも見あたらない。蛾のようなものも載っていないのだ。

今回もまた私は家紋に拘りすぎていたのだ。家紋は元々文様からの発生が多い。以前の筏紋の時もそうだった。
その本には様々な事が書かれていた。そして蛾崇拝説や友人の説はものの見事に崩されてしまったのである。

別の書籍では江戸時代の描かれた円山応挙の絵画が見事なデザインで、花に群がる蝶達が一面に描かれているものがあった。
アゲハチョウを初めとする様々な種類の蝶の中に一匹だけ蛾を見つけることが出来た。オオミズアオである。他の蝶達とは違い、見事な白緑(びゃくろく)色で描かれ、画面の中でも配色的に重要な役割をはたしている。
この蛾は確かに蝶のようにも見える。当時の人はこのオオミズアオを蝶と見間違えたのであろうか。
この作品では他の蝶達より蛾であるオオミズアオの方が美しく見えることに私は酷く感心した。

その文様の本には蝶の生態も書かれていた。私の調べた蝶の生態は間違ってはいなかったのだが、一つ面白い事が書かれていた。それは「蝶道」というものが存在するという話である。
蝶は必ず一定の場所を通るという。花の蜜を吸いに行った後も必ずその道に戻ってくるというのだ。それは森林の暗い場所と草原の明るい場所の中間の地点で、すぐにでも暗いところに隠れようとする蝶の習性にあるらしい。
古生代、蛾は森林など暗い場所に生息していたのだが、種の中に太陽光を求めたものがいた。それらが蝶として進化したのだという。さらに飛びやすくするため、胴体や触角は細くなった。軽量化みたいなものであろうか。明るい場所で花の蜜を求めるように成ったため、羽の模様も華やかとなっていった。即ち擬態である。

蝶とは明るい草原に移り住むために蛾から進化した姿だったのである。

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第八話 「不気味な蝶紋たち」

文様や絵に登場する蝶はどれもが美しく描かれているのにも関わらず、家紋となると何故こうも違うのであろうか?
下記の家紋を見ていただきたい。日本家紋総監から抜粋したものである。どれもが蝶の美しさを感じるどころか不気味で恐怖してしまいそうなデザインのものばかりである。

蝶紋
変わり揚羽蝶
変わり揚羽蝶
変わり谷蝶
変わり谷蝶
変わり揚羽蝶
変わり揚羽蝶
陰真向い変わり揚羽蝶
陰真向い変わり揚羽蝶
変わり浮線蝶
変わり浮線蝶
石持ち地抜き浮線蝶
陰雪輪形浮線蝶
細八角に備前蝶
細八角に備前蝶
変わり源氏蝶
変わり源氏蝶
源氏蝶
源氏蝶
丸に飛び胡蝶
丸に飛び胡蝶
変わり二つ蝶
変わり二つ蝶
天人蝶
天人蝶

どれもが異質なものばかりだ。上記画像左上の「変わり揚羽蝶」をよく見ると足が8本もついている。昆虫の足は合計6本。4本足の蝶がいる話を聞いたことはあるが、流石に8本足は聞いたことがない。まるで蜘蛛のようだ。その右隣の「変わり谷蝶」は一見、人が蝶の格好をして踊っているかのように見えるのは私だけだろうか。獅子舞のように見えてしまい私にはおかしくてたまらない。中段の家紋なども蝶というより何か別の生き物に見えなくはない。
ここに登場する家紋達の全てが「蝶?」と疑ってしまいそうなものばかりなのである。

蝶紋が多く用いられるようになったのは所謂戦国時代である。特に有名となってくるのが平氏の揚羽蝶であろう。藤原氏縁のものも蝶紋だという。あの織田氏も蝶紋だ。
この事からも敵に対して威厳を持つ、威嚇する、などの意味があるのではないだろうか?
上記画像の紋名にも注目して貰いたいのだが、「源氏」という言葉も目立つ。右下の「天人蝶」のシルエットはまさしく兜(カブト)である。この事からも戦が連想させられる。
戦乱期が蝶紋を用いられる時代と同時期である事からも、この説に間違いはないだろう。つまり蝶紋が生まれた時代は「美しさ」を求める時代ではなく、「力」を求めた時代だった為、家紋のデザインもそれに伴ったデザインとなったのではないだろうか。

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第九話 「家紋と文様の違い」

「蝶紋」というテーマは「浮線蝶」の謎から始まり、蝶の生態の話しにまで広がっていった。
この「浮線」という言葉自体が死語(広辞苑未掲載)であったためにかなりの回り道となってしまった。
「浮線綾」とは平安貴族の間で持て囃された古い文様のことで、語源は線を浮かせて織るという綾織りからである。多くの書物には浮線蝶は浮線綾が変化した様に紹介されているが、浮線蝶が「伏せ蝶」から転じたということからもこれは信憑性は薄い。つまり浮線綾の「浮線(ふせん)」を伏せ蝶の「伏せ(ふせ)」に当て、浮線蝶となったのであろう。
風船龍というものもあったが恐らくこれも当て字だろう。これについて触れた文献を目にしたことはないが、浮線綾という紋章が球形を連想させ、その形状から風船と掛け合わすという当時の洒落であったのかも知れない。
また浮線綾に浮線蝶にある触覚のようなものが見られる。これは紛らわしいが、触覚ではなく唐草である。
浮線蝶が大変人気であったことは、それを真似た数多く存在する「浮線何々」という紋章からも分かる。
また、「蝶紋は蛾ではなかったのか」という仮説(伏せ蝶が羽を伏せて留まることからも蛾と関連付け)を一時思い描いたが、それは私自身の思い込みであった。
美しくあるべき蝶が家紋となるとそのほとんどが凄みを何故見せるかという疑問。これは蝶紋が著しく発達したのは戦乱時代であり、敵へ畏怖を与える為の威嚇を目的としたものだったのであろう。

大宮華紋
池田対い蝶
池田対い蝶
揚羽蝶菱
揚羽蝶菱
変り対い揚羽蝶
変り対い揚羽蝶
揚羽蝶の丸
揚羽蝶の丸
光琳揚羽蝶
光琳揚羽蝶
藤輪に揚羽蝶
藤輪に揚羽蝶
雪輪に浮線蝶
雪輪に浮線蝶
浮線蝶菱
浮線蝶菱

これらの作品は私の彩色の大宮華紋だ。
このように配色次第では日本古典のイメージから離れ、ヨーロッパのアールヌーボー・ジュエリー感覚の雰囲気を出し、また違った印象を与えることも出来る。
白黒で凄みのあった蝶紋もこうして彩色する事によって美しく羽ばたく事が出来るのではないだろうか。

蝶の美しさとはしなやかに自由気ままにひらひらと空を舞う事。
絵画や文様などではそれらの動きを表現する事は可能ではあるが、家紋となれば「動きを止める」必要がある。
家紋と文様の違いはここにもあるのかも知れない。

オマケ 「森本勇矢による追記」

蝶は幼虫からサナギを得て成虫となる昆虫である。
サナギになるとき、蝶の体は一度液体になるという。完全な変態を遂げるのである。
そのため、蝶は変化の象徴でもある。
それは死と再生を意味している。家紋に蝶が選ばれたのはこのような意味があるのかもしれない。

平家の家紋は蝶紋であるというが、いわゆる源平の頃にはまだまだ家紋は成立していなかった。もちろん平家が蝶を紋章として使ってなどいなかったのである。
では、何故平家の家紋が蝶紋なのだろうか。
それは平家が蝶を象徴としていたからである。平家は至る所、至るモノに蝶の文様を施している。これがそのまま蝶紋へと発展していき、後生になってから「平家の家紋は蝶」といわれるようになったり、平家の血を引く者、平家に使えていた者たちが用いるようになったのである。

「タイラ」とは「鳥」という意味だそうだ。
「鳥」は音読みでは「チョウ」。
平家が蝶を象徴とする理由は明確ではない。
ここには何か隠された謎、もしくはロストしてしまった意味が隠れているのかもしれない。

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京都家紋研究会

家紋を探る(ブログ)

森本景一
1950年大阪府生まれ。
染色補正師、(有)染色補正森本代表取締役。日本家紋研究会理事。
家業である染色補正森本を継ぎながら、家紋の研究を続け、長らく顧みられなかった彩色紋を復活させる。
テレビやラジオなどの家紋や着物にまつわる番組への出演も多い。
著書に『大宮華紋-彩色家紋集』(フジアート出版)、『女紋』(染色補正森本)、『家紋を探る』(平凡社)があるほか、雑誌や教育番組のテキストなどにも多数寄稿している。

森本勇矢
染色補正師。日本家紋研究会理事。京都家紋研究会会長。1977年生まれ。
家業である着物の染色補正業(有限会社染色補正森本)を父・森本景一とともに営むかたわら、家紋の研究に取り組む。
現在、「京都家紋研究会」を主宰し、地元・京都において「家紋ガイド(まいまい京都など)」を務めるほか、家紋の講演や講座など、家紋の魅力を伝える活動を積極的に行なっている。
家紋にまつわるテレビ番組への出演や、『月刊 歴史読本』(中経出版)への寄稿も多数。紋のデザインなども手がける。
著書に『日本の家紋大事典』(日本実業出版社)。
ブログ:家紋を探る京都家紋研究会



大宮華紋森本


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