大宮華紋誕生秘話

いかにして大宮華紋は誕生したのか?
それは一人の若い紋章上絵師との出会いであった!

第一話 「運命の出会い」

人生には様々な出会いがある。大宮華紋もまた運命的な出会いで誕生した。
私自身、このような出会いは今回だけだと思っている。

十代半ば、子供の頃から乗り物好きであった私は、当時バイクが興味の対象であった。
15才(1965年)から今の仕事をしていたという事もあり、17歳の頃にはすでに国産の人気バイク(250cc)を手に入れていた。
しかし当時の一番の憧れは英国車。中でも私は1960年代のトライアンフ・ボンネビル650ccが最も好きで、あのスタイルと音と振動が身震いするほど魅力的だった。
このクラシックバイクを手に入れたのはそれから13年後の1980年の夏だった。当時でも街ではめったに見かける事はないという珍しい代物で、見知らぬバイク好きからよく話かけられたものだ。

彩色家紋制作に行き詰まっていた頃、気分転換にはこの図太く弾けるトライアンフのエンジンサウンドが一番であった。
とある日の事。
これと同じバイクに乗っている人を知っている
と知人が私に教えてくれた。さらに彼は相手側にも同じ事を伝えていたという。
バイクの好みが同じ。どんな人だろう?バイクも見てみたい!
私がそう思うのも仕方なかった。当然、私も相手側も「紹介して欲しい」と願ったのである。しかし紹介してくれる様子は無く2、3ヶ月が過ぎた。
私が散々紹介を願ったところその知人は、相手の大まかな住所だけは言ってくれた。しかし相手側には私の名字しか伝えていなかったのである。どうやら私達を会わせたくなかったようだ。
その見知らぬバイク好きの大まかな住所は、我が工房から近い距離で、私は居ても立ってもいられなくなり、昼休みの僅かな時間を使って探す事にした。通りの名前だけは聞いていたので、取り合えずその日はその道を通り過ぎただけであった。
今、通り過ぎたのは確かにトライアンフ!ひょっとしたら例の同じバイク?
めったに無いだけに相手も予感が走ったという。
そして次の日、少し時間が取れたのでじっくり探す事にした。一軒一軒覗き込むようにバイクを転がした。あの独得のサウンドが相手に届くように。
相手は微かに近づいてくるサウンドを耳にするや否や、「今日こそは自分を探しに来た」と確信し、思わず表に飛び出していたという。
私が今日も駄目かと諦めかかった時、なんと、前方に髭を蓄えた青年が私を見て、手招きをしているではないか。私は彼だと確信しバイクを止めた。
森本さんですか?

1980年の秋も深まった頃の事である。これが運命の出会いの瞬間であった。 

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第二話 「大宮華紋誕生」

青年はN氏と言い、私と同世代の上絵師であった。まるで幼なじみとの再会かのように、二人は初対面とは思えない程打ち解けあった。
当初の二人の会話と言えばバイクの事ばかり。N氏のバイクの手入れは完璧で、油汚れどころかホコリ一つさえ全く無いのである。病的と言っても過言ではないほど綺麗なのだ。
きっと仕事の腕もいいのでは?
そんな思いがそうさせたのか、やがて仕事の話も交わすようになっていった。
そんなある日。
今、上絵師のY氏に協力を願ってこのような彩色家紋の制作をしている
と話を持ちかけてみる事にした。どうやらY氏は彼にとって雲の上の人物であったらしく、予想以上の反応があった。
是非仲間としてやらせて欲しい
そこでサンプルの色上絵を試しに数点描いて貰う事にした。そしてその結果はY氏にも真似の出来ない繊細で美しい仕上がりで、私の想像を遙かに越える見事な出来栄えであった。
またこれはN氏自身にとっても今までにない快感であったらしい。
これは今まで行き詰まっていた私の彩色家紋制作に革命が起こった瞬間でもあった。

N氏の出現はY氏をも刺激し、この両者の良きスタッフのお陰で私はまた前に踏み出すことが出来た。

そして間も無く私の彩色家紋は、
大宮びとの風雅のこころを 現代の色調で表わした あなたおひとりの彩色家紋
として、父が「大宮華紋」と名付けてくれた。
そしてその2年後に移り変わった今の工房が偶然にも大宮通り。なんとも因縁深い話ではないか。

鷺桐
鷺桐

加賀梅鉢
加賀梅鉢

五三桐
五三桐

二葉葵
二葉葵

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第三話 「色を挿す」

N氏との出会いで大宮華紋は完成された。さて、ここで話を少し遡らせてみよう。

1970年代、一軒のお得意先から色を使った紋入れがコンスタントに続いていた頃の事である。
そのお得意先は社員教育も兼ねて、当社に新入社員を営業(加工依頼)によこしていた。私は毎回彩色家紋の説明を社員さんに繰り返していた。そこで私の案でより分かりやすく、より説明しやすくする為に種類別に彩色家紋のサンプルを作ることにした。 主に3種類「刷り込み紋」「白抜き色上絵」「素描き色上絵」である。

そんな中、また別の得意先と私との間でこのようなやり取りがあった。

補正の依頼で預かっていた仕立て上がりの振袖に、墨描きの家紋を目にした。白地に「中陰五三ノ桐」が素描で一つ。どこかに忘れ物をしたような感じで寂しくも見える。
納品時に話すとやはり得意先も
「先方も『何か物足りない、これだったら色を使って縫い紋にすれば良かった』と、このようにおっしゃってました。」
「もし宜しかったらこの墨上絵の中に友禅と同色の赤でも挿しましょうか?」
私が持ちかけた提案に得意先も承知して頂き、話は成立し納品に漕ぎ着けた。

「縫い紋じゃないのに華やかで、なんと言っても新鮮な感じがとても好評でした」
と後日、お誉めに預かった。1977年、長男の誕生した年の事であった。

三ツ葉藤(刷り込み紋)
三ツ葉藤(刷り込み紋)

丸に井桁(白抜き色上絵)
丸に井桁(白抜き色上絵)

沢潟(白抜き色上絵)
沢潟(白抜き色上絵)

五三ノ桐(素描き色上絵)
五三ノ桐(素描き色上絵)

墨描きの状態
墨描きの状態

色を挿した状態
色を挿した状態

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第四話 「目返し紋」

その後、Y氏にこの経過を話して問う事にした。
「白地に抜き紋ではインパクトが無さ過ぎましたので、私の判断で色を挿しました。しかし紋場に色を挿しても良かったのでしょうか?」
「確かそれは目返しと言って、随分昔に聞いた事がある」
とY氏は答えて下さった。

「目返し」とは本来白で上げるところに、後から色を挿す彩色技法のことだが、これは当時でも死語となっていた。色がはみ出さないように糸目糊を置く「友禅技法」とは異なる。 

目返し紋
これは私のサンプルに加える価値が十分にある。白地だけではなく色物にも試す価値はあるだろう。
こうして色々なバリエーションの制作に取り組み始めたのである。

色々なパターンを制作した結果、上記画像のように地色が薄く目返しが濃い場合は問題はないが、逆に地色が濃く目返しが薄い場合は何かすっきりしない。
それは濃地の紋入れなどで紋場が十分に白く抜け切らない場合と見間違えられる恐れがあるようだ。


中陰桔梗

房丸扇
房丸扇

変り枝橘
変り枝橘

折り鶴
折り鶴

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第五話 「目返し色上絵(めがえしいろうわえ)」

そこで地色が濃く、目返し(紋場)が薄いものには、すでに制作済みであった「色上絵」を組み合わせてみることにした。
するとどうだろう。
今までに見たこともない不思議な家紋の世界がそこに出現したのだった。

これが「目返し色上絵」の誕生となった。

しかし目返し色上絵のサンプルは思うように進まなかった。
Y氏が忙しすぎたということや、Y氏自身の興味の対象ではなかったようである。それでも私は粘り抜き、よく夜中にサンプル制作のため、Y氏に机の前に座り込んだものだ。

そしてその後にN氏との出会いがやって来るのである。

隅切角に三木
隅切角に三木

左三つ巴
左三つ巴

丸に松皮菱
丸に松皮菱

丸に二つ引
丸に二つ引

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第六話 「作品作り」

N氏との出会いはサンプルから作品へと私の意識を変えてくれた。

N氏の助けによりどんどんバリエーションが広り、私を家紋の虜へと導いてくれた。
またこの事が色の世界をも開花させてくれた。 色を付ける事で家紋のデザインにまた新たな息吹を吹き込むことが出来る。普段見慣れている家紋も彩色次第では全く別ものになってしまう。
改めて家紋の素晴らしさを発見出来、家紋がどんどん愛しくなっていった。

目返しは基本的に一色にした方が紋章のデザインを活かせる。しかし絵画的な要素が強いものは、複数の色でその効果を上げることがある。
この頃、制作した作品はN氏とそれぞれ保管して人には見せなかった。二人のコレクター癖がすっかり商売を後回しにしていたのだ。

やがて出版社の耳に入る事となり「大宮華紋を本にさせてくれないか?」と、嬉しいお話を頂くまでに至った。
それからは出版に向かっての制作に変わっていった。
今までのものを家紋別、配色別と整理し直し、新たな制作にダブりがないよう入念に計画を行った。この事が出版後も配色の研究を続ける切っ掛けとなった。

大宮華紋は基本的に目返し(紋場の彩色)は1色だ。そして色上絵と地色との3色で見せる。この3色の配色を徹底して分析してみた。
この仕組みをものにすれば後はいくら色数が増えても理論は同じことなのだ。
寝る時間を惜しんで色カードに埋もれる生活が続いた。独自の配色資料もかなり作った。
過労で倒れ色カードに追われる妄想も、今となっては私の財産なのかもしれない。

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第七話 「遊びのこころ」

出版のために着物のサンプルを制作していた時の事。
数点の無地感覚の色想きものに加えて、パーティー用をイメージし、金通しの生地で制作を試みた。しかしここに来て、大きな壁にぶつかってしまったのだ。それは出版社へ提出する、最後の大宮華紋の制作中の時だった。

その着物はぼかし染めを基調にしたもので、生地が金通しであったため、金糸の上に上絵の染料が思うように乗らないのである。金糸の光沢に負けてしまってアクセントであるべき大宮華紋が全く引き立たないのだ。
予想もしなかった出来事に体中の血液が逆流する思いであった。苛立てば苛立つ程、よけいにうまくいかない。いいアイデアも浮かばない・・・。
気づけば夜中。工房で途方に暮れているところへ父が帰って来た。今日はいつもより酔っているようだ。
そんな父に泣きたい思いで私は途中経過の大宮華紋を見せた。
「これは商品ではなく、作品なんやろ?お客さんはいないんやろ?だったら!今までのこだわりを捨てて遊べばいい。作品とはそういうもんや!」
酒が言わせたのか、語り口調はいつもと違い熱かった。
父も染色補正師であるが、川柳家という別の顔も持っている。その夜、目の前にいる父の顔はもの作り屋の顔であった。
私は初心を忘れていたのかも知れない。確かにその時の私は本というステージを意識し過ぎていた。
「ウケなんかどうでもいい!」と熱っぽく語ってくれた父に私は救われた。 肩の力が抜けて行くのが分かった。そして目の前には全くの別世界が広がっていった。
私はアクリル顔料を取り出し、そのか弱い上絵の上から力強く乗せていった。それに加え、その迫力ある上絵に負けないように目返しにも染料を染め込んでいった。
それは今までに無い、初めて見る家紋の世界だった。
これが後のアールヌーボー・ジュエリーシリーズとなった。
出版のための最後のジュエリーシリーズ。ウケを狙うなと父に言われて作ったこのシリーズが出版社で一番ウケたのである。

揚羽蝶菱
揚羽蝶菱

花付割葵
花付割葵

六つ藤
六つ藤

細蔓一つ葵
細蔓一つ葵

飛び竜胆胡蝶
飛び竜胆胡蝶

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第八話 「加賀紋との違い」

大宮華紋の制作以来、加賀紋との違いを問われる事がよくある。

本来の加賀紋とは文字通り加賀の発祥であり、歴史は元禄時代にまで遡る。
それは伊達紋が刺繍で表したのに対し、加賀紋は友禅染めに拘っていたことにある。また江戸末期には、彩色しない家紋と友禅文様を配したものも現れ、他の洒落紋にないより独自のものが生まれた。
しかし現在、加賀紋と呼ばれているものに本来の友禅技法はほとんど見受けられない。それはあくまでイメージを刺繍や印刷方式でプリントしたものにすぎないのである。

現在、加賀紋は名称のみ一人歩きしているといえよう。結果、多彩な洒落紋の総称となったため、私の大宮華紋も「加賀紋」の一言で片付けられるのかもしれない。

「加賀紋」についてはこちらからどうぞ。

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第九話 「出会い華」

N氏との出会い以降の作品は出版時には600点にも達し、趣向を変えながらも現在ではその倍を越えている。
大宮華紋とはお召しになる方によっていくらでも変化し続ける。新たにデザインをする事もあればアレンジを加える事もある。それは正に無限の小宇宙なのだ。

大宮華紋は私の今までの関わりの全てが因果関係となり結晶となった。何一つ欠けても今の形は無い。
これからの出会いは大宮華紋を、また私をどのように変えてくれるのであろうか。
ひょっとすれば、それはこれを読んでいるあなたなのかも知れない。

あなたも私と出会いの華を咲かせてみせませんか?

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京都家紋研究会

家紋を探る(ブログ)

森本景一
1950年大阪府生まれ。
染色補正師、(有)染色補正森本代表取締役。日本家紋研究会理事。
家業である染色補正森本を継ぎながら、家紋の研究を続け、長らく顧みられなかった彩色紋を復活させる。
テレビやラジオなどの家紋や着物にまつわる番組への出演も多い。
著書に『大宮華紋-彩色家紋集』(フジアート出版)、『女紋』(染色補正森本)、『家紋を探る』(平凡社)があるほか、雑誌や教育番組のテキストなどにも多数寄稿している。

森本勇矢
染色補正師。日本家紋研究会理事。京都家紋研究会会長。1977年生まれ。
家業である着物の染色補正業(有限会社染色補正森本)を父・森本景一とともに営むかたわら、家紋の研究に取り組む。
現在、「京都家紋研究会」を主宰し、地元・京都において「家紋ガイド(まいまい京都など)」を務めるほか、家紋の講演や講座など、家紋の魅力を伝える活動を積極的に行なっている。
家紋にまつわるテレビ番組への出演や、『月刊 歴史読本』(中経出版)への寄稿も多数。紋のデザインなども手がける。
著書に『日本の家紋大事典』(日本実業出版社)。
ブログ:家紋を探る京都家紋研究会



大宮華紋森本


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