女紋の歴史
家紋とは日本文化が生んだ封建社会の象徴であったともいえる。しかし現代のように封建が崩壊した世の中では本来の意味は失いつつある。今でこそ男女平等を謳う(うたう)世の中ではあるが、かつての男社会に根付いた家紋に対して、女紋とは一体何だったのであろう。どうして男社会に女紋が必要だったのか。
江戸時代、武家が娘を嫁がせる際に実家の家紋を持って行かせたのが始まりだとされている。しかしその頃はまだ女紋とは称していなかった。何故ならば、それはあくまでも家と家との繋がりの証しであったためである。花嫁道具一式全てに実家の家紋を施したのは、この時代の離婚法度に家紋が使われた事によるという。
離婚法度とは、
「女の所有物を勝手に持ち出して紛失すれば、生涯離婚まかりならぬ」
という条文に基づいている。故に、嫁ぐ女性は実家の財産誇示や私有財産権の主張として、婚家で調達して貰うものと区別する必要があった。
さらに目録を三通用意し、自分(または実家)、婚家、仲人のそれぞれが持ち、管理するという念の入れようであった。
それは離婚回避や離婚後の生活に備えての一計であろうが、実際は嫁入りした女性の財産占有権を侵害した者に対して、社会的制裁が与えられるという裏事情があったためである。それは世間の批判を浴びるといったような人間的評価を下げるものであり、これは民衆による慣習法として行われていたという。
また真意は定かではないが、女紋の起源は「源氏に破れた平氏が残党狩りを避ける目的で、女系に揚羽蝶(平家の家紋)を伝承させた」ともいわれている。以降これは影の習慣として息を潜めてきていたのであろうか。通紋に揚羽蝶が使われていることからもこの説は完全には無視する事は出来ない。
女性が家紋を使用するようになったのは江戸時代中期だとされ、すでにこの頃から東日本と西日本とでは習慣の相違があったようだ。女性専用の紋は関西に多く、それも「母から娘、そして孫娘へ」と継承する「母系紋」であった。東日本でも女性の家紋共有の記録はあるのだが、中には女性専用に替え紋を作り使用していたという事も記されている。
江戸時代の頃、大まかに分けて、東日本は武家文化、西日本は商人文化というように東西で別の文化が根付いていた。武家社会は当然男社会であるが、商家では表向きが男であっても、その裏では女性の力が大きく左右していたのである。主人を表に立てながらも、家族や使用人の面倒をみたり、さらには財布までも握っていた。
また当時の商家の多くが母系継承であった事からも、母系紋が生じた事を裏付け出来るのではないだろうか。
女紋はこのような女性の財力、発言権という商人文化が生んだものであったとすれば、女紋は庶民にとっては縁遠いものになってくる。さらには公家の母系社会からも何らかの影響を受けたのではないだろうか。
ではどうして今日のような形で庶民に広く根付いたのか。
どうやら女紋が庶民にまで浸透したのは江戸末期から明治の頃のようで、意外とその歴史は浅い。この頃から日本にもいわゆる洋服が入り、上流階級から浸透していくこととなる。一方で着物はその頃からフォーマル化の道を歩む事になり、一般女性も染め抜き紋が施された着物を着用するようになるのである。異文化の影響を受け時代が変わろうとする中、女紋も大きく広がりを見せていく。
女紋とは上流階級に憧れをもつ庶民に、商人がつけ込んだ策略だったのではないのか。つまり女紋の持たない庶民に、ステータスである女紋と共に嫁入り調度品を勧めたと考えられる。その際、母系紋や通紋は、まだ結婚が決まっていない女性の身支度に最も都合の良い売り込み材料になったのである。庶民への定着はどうやらこの辺りにもあったのではないのだろうか。現在では家紋同様、女紋の存在も薄れてきている。それはステータスの対象が他に移ったと考えられるのではないか。