色に想ふ 〜森本景一色彩論〜 「私と色」

甦る匂い

色を意識し始めた時。それがいつ頃の事なのか定かではないが、幼いの頃からとにかく絵を描くのが好きだった。しかしその頃の私は色を使う事よりもむしろ形の方に興味があったようだ。
仕事から帰って来る父にねだって、鉛筆でよく絵を描いてもらったものだ。
父は絵が得意であったとはいえ疲れている父にとってはさぞ苦痛であっただろう。

当時、「蛸の吹だし」という漢方薬の軟膏があった。これはおできなどに塗りつけて、化膿させて膿みを吸い出すという荒療治薬なのだ。
この軟膏がかなりの深緑であったのと、かなり臭かったという事を記憶している。
ここで初めて明かす事だが、私は小学校低学年の時に鼻を患い、それ以来すっかり匂いを奪われてしまったのである。つまり五感の一つ、嗅覚を失ったのだ。

この仕事について自分で深緑色を調合している際に、幼い頃の「蛸の吹だし」に色目と濃度がぴたりと一致した時、嗅覚の無い世界にいる私に、その軟膏の臭いの記憶が戻って来る。
もうすっかり忘れてしまっていた時代の匂い、その記憶が色によって甦るのだ。
不思議な話である。