女紋 -おんなもん-

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女紋の流れ

女紋が発生した理由や時期を正確に示した資料は現在の所見つかっていない。当然、こちらが見つけていないだけで存在する可能性は十分にはあるが、それは現時点では致し方ない事である。故に想像や推測の域は超えられない。
女紋は資料によると、武家より発生したとされている。しかしその理由は書かれてはいないようだ。
ではその発生の理由から考えてみよう。
「母系紋とは」でも触れたが、日本は武士の多い建前社会である関東、庶民や商いの盛んな人情社会の関西、といったように習慣には大きな違いがあった。まずはこれを前提に話を進めていく事にする。

武家となるとやはり家を大きくしたいと考えるのが筋であろう。 政略結婚と言われるようなものに利用したとも考えられないだろうか?
娘を嫁がせる際の婚礼道具に女紋と付けたとされるが、これはもちろん財産誇示の為であり、嫁ぎ先に奪われない為の一種の防御手段であったのだろう。これは「替え紋」であった可能性が高いはずだ。
何故ならば嫁がせる際、最悪でも仮に失っても差し支えない替え紋、つまり家の象徴である定紋では無い紋を持たせる事により家を守っていたのであろう。定紋を持たせるという事は言い換えれば、家を捨てる事と同じである。家を重んじる当時の日本人にそのような事が出来たはずがない。

私の考える女紋の歴史の仮説は以下の通りである。
東北から関東にかけて武家の多い地方のどこかで、女紋(女性が紋を使用する習慣)が発生した。そしてこの女紋(替え紋)は参勤交代などの制度で、関西の母系が主体であったとされる公家・華族や商家といったような金持ちの層に伝わった。
西と東の習慣が入り交じった結果、関西の女紋(母系紋)をが発生したのであろう。情にあつい関西は母親の愛を娘に伝えていくという母性愛が息づいたのであろう。またはこういった形式を取ったのではないだろうか。
そして女紋という習慣は庶民にも広がりを見せていく事となる。庶民というものはあくまでどこまでいっても庶民の域を超える事は出来ず、もちろん家紋はおろか名字すら持てなかった。
時は流れ、人々に少しずつ余裕が出来始めた頃には、庶民も名字を持ち家紋まで持てるようになってきた。しかし今のように気軽に持てるようなものでは無く、幕府に登録をするというきちんとした制度であった。
いつしか金持ちの代名詞となった「女紋」に対し、庶民は憧れを持ち、その広がりはさらに拡大し始めた。中でも皇族の「五七ノ桐」や源氏で有名な「揚羽蝶」などが、人気を集めた。
上階級が持つ物に憧れるという資質はいつの時代でも同じなのであろうか。これは紛れもなく今で言う「ブランド」である。
この「ブランド化」には恐らく仕掛け人がいたのであろう。例えば、呉服商人などが、
「公家なんかじゃ、『女紋』ってのがあるんですよ。定紋以外に女性だけが付ける紋の事ですわ。これからは女性も紋を背負う時代!さあ、この機会にどうです?」
「女性だけに代々伝わるという『女紋』をご存じで?金持ちの家では当たり前。どうです?お宅にも女紋を。」
なんて風に商売したのであろうか。
つまり、金持ち階級の習慣である「女紋」を上流階級に憧れる庶民に、憧れという「ブランド」として売り込んでいったのではないだろうか。もしかすると「母系紋」もこの時に「作られた習慣」だったのかも知れない。
母系紋が発生したのは江戸後期から明治に入った頃からだという。つまりそんなに歴史が深い習慣ではないのだ。遡っても四代、五代前程度である。「代々伝わる・・・・」というにしては些か言い過ぎな気もする。

以上のような大まかな流れが女紋の発生だと私は考える。私のひねくれた性格がこういった想像をしてしまうのかも知れないが、その発生には美談とは対極的な事があったような気がしてならない。

管理人:ARK